鉄の鍋は、時間を煮込む。Lodgeのダッチオーブンと、野草のスープ

鉄の鍋は、時間を煮込む。Lodgeのダッチオーブンと、野草のスープd
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春の土手は、食べられる草で賑わっている。

ヨモギ。ノビル。春先の柔らかい草たちは、摘む指先に、若い葉の匂いを残す。泥を落とし、水で洗い、茎の硬い部分を折る。僕の手は、いつの間にか野草を摘む手になっている。

摘んだ草だけでは、一食にならない。

だから、もう一つ道具を取り出す。どっしりと重い、鉄の鍋である。

Lodge ダッチオーブン L8DOL3(5クォート)は、アメリカの鋳鉄メーカーが作る、蓋付きの鉄鍋だ。容量は5クォート(約4.7リットル)、直径は約26センチ、重さは約5.9キログラム。厚い鋳鉄が熱を蓄え、蓋を閉じれば、その熱が鍋の中をゆっくり巡る。

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火を起こして、火を待つ

焚き火を起こし、熾火にする。

最初の火は、パチパチと音を立てて燃える。そのままでは料理に使えない。炎が落ち着き、白い灰をかぶった熾火になるまで、薪を足し、火を休ませる。この待ち時間が、ダッチオーブンの料理には必要である。

鍋を火の上に置く。

厚い鉄は、すぐには熱くならない。焦って火を強くしても、鍋の中身は急に温まらない。鉄がゆっくり熱を蓄え、その熱が、鍋全体に静かに広がるのを待つ。

僕は、この待ち時間が嫌いではなかった。

何もせず、ただ火の音を聞く。熾火が風に吹かれて白く光るのを見る。急いでいることを、いつの間にか忘れる。火を待つ時間は、自分を待つ時間でもある。

野草と豆を、一時間かけて煮る

鍋に油を引き、玉ねぎを炒める。

今日のスープは、摘んだヨモギと、前日から水に浸しておいた豆である。水を注ぎ、豆を入れ、塩を一つまみ。蓋を閉じると、鍋の中は、外の音から隔てられた小さな世界になる。

後は、火に任せる。

一時間ほど、ほとんど触らずに置いておく。時々、蓋を開けて、湯気の中の匂いを確かめるだけである。豆が柔らかくなり、ヨモギの緑が、スープの色に溶けていく。

鉄の厚みは、温度の変化を緩やかにする。

火力のムラを、鍋自体が吸収してくれる。あらゆる焦りが、分厚い鉄の壁で遮られる。料理は、鍋が教える時間で進んでいく。

鉄は、使い込むほど馴染む

この鍋は、初めから油の馴染んだ状態で届く。

だが、本領を発揮するのは、何度も使い込んでからである。炒め、煮込み、焼くたびに、鉄の表面は少しずつ黒く、滑らかになる。油が染み込み、使い込まれた黒が、鍋の表面を覆っていく。

傷もつく。焦げも付く。

落ちにくい焦げは、水を張って火にかけ、柔らかくしてから洗う。洗剤は使わない。たわしで汚れを落とし、火にかけて水分を飛ばし、薄く油を塗って仕舞う。

この手入れの時間が、僕には必要である。

便利な鍋なら、すぐ洗って、棚にしまうだけだろう。だが、鉄の鍋は手間をかけるほど、次の料理へ応えてくれる。手間は、道具を育てる時間でもある。

一時間後、スープはできている

蓋を開けると、白い湯気が立ち上ぼる。

豆は柔らかく崩れ、ヨモギの香りが、スープの中に溶けている。土手の春と、火の時間と、鉄の重みが、一つの器の中で出会っている。

すくって、口へ運ぶ。

熱い。鉄の鍋が蓄えた熱は、スープの中に長く残っている。豆のほくほくとした食感と、ヨモギのほろ苦さ。何も加えていないのに、野の草の味が、しっかりとしている。

食べることは、時間を食べることである。

摘む時間。火を待つ時間。煮込む時間。洗う時間。それらをすべて含めて、この一杯のスープはできている。便利に早く作った食事よりも、時間をかけた食事の方が、身体に深く残る気がする。

それは、栄養の問題ではない。

食べた時間そのものが、僕の身体の中に残っていく。

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鍋の蓋を開ける時の、期待と不安

ダッチオーブンの料理は、蓋を開けるまで中が見えない。

一時間煮込んだ後、蓋の縁に指をかける。重い。鉄の蓋を持ち上げると、湯気の壁が立ち上がる。その瞬間、期待と不安が同時に来る。

上手く煮えているか。焦げていないか。味はどうか。

蓋を開けるまでの時間は、料理の中でいちばん長い。

だが、そのドキドキも、この鍋の味の一部だ。

失敗したこともある。豆が硬いままのスープ。焦げた匂いのする鍋底。それでも、失敗した理由はいつも分かる。火が強すぎた。待ち時間が足りなかった。次は、こうする。

失敗は、次の教訓になる。

何度も煮込むうちに、鍋も僕も、少しずつ上手くなる。その成長の時間が、鉄の鍋の中に積み重なっている。

重さは、覚悟である

5.9キロの鍋を担いで山へ入るのは、決して軽い決断ではない。

ザックの底で、鉄の重さは確かに存在する。軽いチタンのクッカーに比べれば、数倍の重さを背負うことになる。

だが、その重さがあるから、僕は「今日は何を煮ようか」と考える。

重いからこそ、この鍋で何を作るか、誰と食べるか、どこで火を起こすかを、丁寧に選ぶ。軽い道具は、何でもできるかわりに、何をしてもよいという曖昧さを持つ。

鉄の鍋は、その曖昧さを許さない。

重さは、時間をかけるための覚悟である。この鍋で作る料理は、早くて美味しいものではなく、ゆっくりと向き合うものになる。

夕方、鍋を洗って火を消す。

明日の土手には、また新しい草が伸びているだろう。鉄の鍋は、ザックの中で、次の時間を待っている。

五キログラムの重さは、僕に「急ぐな」と言う。

便利な道具が増えた時代に、あえて重い鉄を選ぶことは、少しだけ古い選択である。だが、その古さの中に、失いたくない時間がある。

火を待ち、煮込み、蓋を開ける。

その一連のゆっくりした時間は、僕の身体に、鉄と同じ重みを残す。何もしない時間の価値を、この鍋は知っている。

明日は、何を摘もうか。

その問いを胸に、僕は今夜の火を静かに消した。

食事をすることは、生きることの中心にある。

だが、その中心を、人はすぐに忘れる。早く、安く、簡単に。便利さが進むほど、食べることの時間は短くなっていく。

鉄の鍋は、その流れに逆らう。

時間をかけることの味を、この鍋は知っている。摘んで、洗って、火を待って、煮込む。そのすべてが、食べるという行為の一部である。

僕は、その時間を、失いたくない。


時間を煮込む、鉄の器

摘む時間も、待つ時間も、すべて一つの鍋の中へ。


森で会おう。

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