霧の出た朝だった。
杉の幹が遠くでぼやけ、湿った土の匂いが足元から上がっていた。道は見えている。でも、見えている道が正しいとは限らない。森では、そういうことがある。人生でも、そういうことがある。
ポケットから SILVA Field Compass を出した。透明なベースプレートに、細い目盛り。地図に重ねるためのまっすぐな辺。学校やユースグループ向けにも使われる、基本に忠実なコンパスだ。1:25,000と1:50,000のスケールが読める。派手な機能はない。だからいい。
方位磁針の針は、僕の迷いには興味を示さない。呼吸が荒くても、焦っていても、胸の奥がざわついていても、ただ北を指す。その冷たさが、妙に優しかった。
迷いを消す道具ではない
コンパスは、答えをくれる道具ではない。目的地まで運んではくれない。足を前に出すのは、結局、僕自身だ。
それでも、北が分かるだけで心の中の地図が戻ってくる。どこへ進むかではなく、自分がどちらを向いているか。それが分かる。向きが分かると、怖さの形が変わる。
透明なプレートは雨で少し曇っていた。指で拭うと、冷たい水滴が皮膚に残った。プラスチックの軽さと、針の小さな震え。こんなに軽いものが、森の中では重い意味を持つ。
僕は時々、自分の中の北を見失う。誰かの声、世間の速さ、昨日の失敗。そういうものに体の向きを奪われる。けれど、北は消えない。ただ、見なくなるだけだ。
もう一度、針を見る。北を見る。地図を見る。僕を見る。
方角を確かめることは、弱さではない。立ち止まれる強さだ。進む前に、今いる場所を認めることだ。
物語の舞台に在るもの
迷いを消すのではなく、向きを取り戻すための小さな相棒。
森で会おう。