盛夏の草地では、夕方になっても熱が地面から抜けない。膝をつくと、乾いた茎が布越しに皮膚へ当たる。風が止まった瞬間、耳の近くへ細い羽音が寄ってきた。手で払う。少し離れる。また戻る。目で追おうとすると、もう見えない。
自然へ入る時、僕は無防備であることを美徳にしない。
腰に下げたKINCHO おでかけカトリス40日 カトリスM240Fのスイッチを入れる。小さなファンが回り、薬剤カートリッジが動く。煙の柱も、火の輪もない。目に見える壁は生まれない。それでも僕と蚊のあいだには、薬剤が届く範囲と、風に崩される範囲ができる。
これは防除用医薬部外品で、有効成分はメトフルトリン。蚊の駆除または忌避を目的にする道具だ。単四電池二本で動き、薬剤と電池は同じ時期に交換する。四十日という表示は一日六時間使った場合の目安であり、永遠に続く結界ではない。
境界は、作った瞬間から消耗し始める。
僕は以前、自然の中へ入るなら虫も暑さも雨も受け入れるべきだと思っていた。刺されることまで含めて野外なのだ、と。だが、痒みで集中を失い、掻いた皮膚を傷つけ、夜まで熱を持たせた時、その考えの幼さを知った。自然を尊ぶことと、自分の身体を差し出すことは同じではない。
薬剤を使うことにも迷いはある。虫をすべて消したいわけではない。草地にいる小さな命は、僕の都合で存在しているのではない。それでも蚊が皮膚へ近づく時、僕には自分を守る理由がある。境界は敵意ではない。互いの距離を壊さずに、その場所へ居続けるための交渉だ。
腰の器具へ触れると、回転のかすかな震えがある。効いているかどうかを、派手な変化では判断しにくい。風向きが変われば条件も変わる。草丈、身体の向き、歩いているか止まっているかでも、見えない距離は揺れる。僕は機械を信仰しない。羽音が減ったように感じても、それを絶対の安全へ言い換えない。
境界を作ることは、効き目を疑い続けることでもある。
ランプが消えたら、薬剤だけを責めず、電池とカートリッジを同時に替える。回転しているように見えても、消灯後は十分な効果を期待しない。四十日という言葉より、自分が何時間使ったか、いつ交換したかを覚えておく。道具の便利さは、管理を忘れる権利ではない。
長く使わない時は電池と薬剤を外す。濡らさず、高温へ置かず、回っているカバーを開けない。薬剤に触れた手は洗う。狭い密室では使わず、一日の使用時間にも上限がある。こうした注意は、自然から遠ざかるための規則ではない。自分の身体と周囲の生き物、その両方へ無頓着にならないための線だ。
一度、腰の位置だけを信じて作業を続け、足首を何か所も刺されたことがある。器具がある側だけを境界だと思い、草へ近い身体を忘れていた。長袖や裾の閉じ方、立つ場所、水の溜まり。小さなファン一つに、すべてを預けることはできない。道具は対策の中心になっても、世界全部を引き受けない。
羽音が聞こえない時間にも、僕は時々ランプを見る。動作しているか、カバーを塞いでいないか。安心は確認を止めさせる。だから見えない道具ほど、意識して目を戻す。効いていると感じる時こそ、境界が永続する錯覚へ入りやすい。
交換の日、本体を開く前にスイッチを切る。新しいカートリッジと新しい電池を並べる。片方だけまだ使えるように思えても、表示に従って同時に替える。使い切った薬剤を手にすると、守られていた時間に重さがなかったことへ気づく。見えない働きは、失われるまで忘れやすい。
境界は、作った瞬間から消耗し始める。二度目にそう思う時、それは薬剤の残量だけの話ではない。集中力も、体力も、相手へ穏やかに接する余裕も減っていく。僕は自分の限界を、尽きてから伝えることが多かった。まだ回っているから大丈夫だと言いながら、心のランプはもう消えていた。
人へ境界を伝えるなら、怒りになる前がよい。今日はここまで。今は近づきすぎないでほしい。そう言うことは、相手を追い払う動作ではない。同じ場所から完全に去らずに済むための、小さなスイッチだ。
草地では、道具を使っても羽音がゼロになるわけではない。遠くで鳴く虫、葉裏に隠れる虫、土を動かす虫。その気配の中へ僕もいる。守られていることと、切り離されていることは違う。境界の内側にも風は入り、草の匂いは届く。
僕は皮膚を守りながら、世界との接触を残したい。完全な隔離なら、そもそも草地へ来る理由がない。無防備なら、長く留まれない。その間の狭い場所を探すことが、僕にとって自然との共生なのだと思う。
夕方の草は、昼より匂いが濃い。葉の裏へ溜まっていた湿気が上がり、土の熱と混じる。僕はその空気を吸いながら、腰の小さな回転音を聞く。薬剤を使っているから自然ではない、とは思わない。人間の身体も、この場所に持ち込まれた一つの条件だ。
刺される痛みを我慢して自然らしさを証明する必要はない。逆に、薬剤があるから何も考えなくてよいわけでもない。肌を覆い、時間を区切り、風を読む。それぞれは不完全で、重なることでようやく僕をここへ留める。
境界は一本の線ではなく、いくつもの小さな判断の帯なのだと思う。スイッチを入れる。袖を下ろす。水辺から少し離れる。ランプを見る。痒みが出たら休む。どれも英雄的ではない。だが身体を守る行為は、勇敢さを見せるためにあるのではない。
カートリッジを交換した日付を小さく記しておく。記憶だけに頼らない。僕は自分が思うほど、時間を正確には覚えていない。道具との信頼は、信じ込むことではなく、忘れる自分を含めて仕組みを作ることだ。
自然へ入るとは、無防備になることではない。何度戻っても、この言葉は僕の中で少しずつ変わる。最初は皮膚を守る宣言だった。今は、弱さを隠さずに長く居続けるための知恵だと思っている。
人間関係にも、境界という言葉がある。僕はそれを冷たい壁だと思っていた。近しい相手なら、何も隔てない方がよい。痛みも疲れも、全部受け入れるべきだと。だが境界を持たない優しさは、いつか怒りへ変わる。守らなかった身体は、相手を責め始める。
距離を作ることは、拒絶ではない。ここまでは近づける。ここから先は痛い。その位置を伝えることで、同じ場所に長くいられる。草地で僕が腰へ下げる小さな器具は、その単純なことを教えてくる。
自然へ入るとは、無防備になることではない。装備で世界を征服することでもない。傷つけられる可能性を知り、自分も周囲へ作用することを知り、その間に暫定的な線を引くことだ。線は風で揺れ、時間で薄くなる。だから何度も確かめる。
日が落ちる前に作業を終え、スイッチを切る。腰から外した本体は、掌の中では驚くほど小さい。向こうでは草が風に倒れ、また起き上がっている。虫の声は消えていない。消す必要もない。僕は器具を乾いた袋へ戻し、自分の皮膚がある側へ一歩戻った。
物語の舞台に在るもの
虫を消し尽くさず、草地に留まる身体の距離を作る。
森で会おう。