森の入り口で、靴紐を結びなおす

森の入り口で、靴紐を結びなおす

森の匂いがした。
湿った土と、枯れ葉の発酵した甘い匂い。
僕は車を降りて、深く息を吸い込む。
都市の乾いた空気が、肺の奥でゆっくりと緑色に書き換わっていく感覚。

登山口にある古いベンチに座り、靴紐を結びなおす。
この儀式が好きだ。
日常という名の重力を、ここで一度リセットする。
ここから先は、肩書きも、締め切りも、SNSの通知もない世界。

「お邪魔します」

誰に聞かれるわけでもなく、小さくつぶやく。
森は静かに、ただそこにあった。
鳥の声も、風の音も、すべてが歓迎でも拒絶でもなく、ただの事実として存在している。
その無関心さが、今の僕には何よりも心地よかった。

一歩、足を踏み出す。
ザクッ、という土の感触。
僕の根っこが、ようやく本来の場所に繋がった気がした。